■前衛がまだ息づく時代に
同時代の日本の作品がプログラムにのることが特殊視されない空気が、やっと満ち始めた昨今。そこには、モダニズムを展開した世紀がもはや前世紀となったこと、西洋一辺倒とも言えた音楽の授業に日本の伝統音楽が組み込まれるようになったこと、前衛の終焉とともに調性や旋律性など感覚的に受け入れやすい作品が回帰してきたこと等々、いくつかもの要因が重層的に織り成していよう。本当は最も皮膚感覚で解るはずの距離にある同時代の、そして同じ国の空気を吸った作品がしかし、一般の人々にとっては超マニアックに映り、またいわゆるクラシックの演奏家にとっても「意識をもってとりくむべき」だった時代に、〈日本の音楽展〉はスタートした。そして、事は、実はもっと複雑だった。
熊谷弘氏が〈日本の音楽展〉を開始したのは、1979年の1月。1976年にチャールズ・ジェンクスの著『ポストモダンの建築』(第1版)でポストモダンという語(と傾向)が明確に市民権を得、モダニティ自体への懐疑、そして社会全体を牽引するような「大きな物語」の終焉が到来を告げようとしていた時期だったが、聴衆と作品のインターフェイスであるコンサートには──世界的に見ても──「前衛」の余韻が色濃く残されていたと言わねばならないだろう。つまり、モダニズムの所産として生み出された作品と一般の聴衆との間の溝を。そして、シェーンベルクが「私的演奏家協会」を設定しなければならなかった時代と抵抗の激しさ等の皮相的な違いはあるにせよ、一般聴衆からの「関係なさ」「無関心さ」という点では同質のものを引き継ぐなかで、いまだ、片や前衛的作品を演奏する「スペシャリスト」的な存在と彼らの演奏するコンサートと、片やそれらの作品とはほぼ無縁な「一般的な」聴衆とが、かなりの距離感をもって分離していた時代だったと言えよう。熊谷弘氏は言う。「まだまだ『前衛』という空気が満ちていた時代で、伝統的な作品と20世紀以降の作品がバランス良く自然な形でプログラミングされるようになってきた現在とは異なり、同時代作品への取り組み方は非常に偏っていたと言わざるを得ないでしょう。そしてさらに、取り組む人々にも脚光を浴びる演奏家の一団──つまりスター的な現代音楽演奏のスペシャリストたち──があり、スター演奏家たちに取り上げられない作品、または脚光を浴びない演奏家たちからの発信は、置き去りにされる傾向があったことは否めないでしょう」。
そのなかで、テーマ作曲家を決めるでもなく、スター・スペシャリストを立てるでもなく、一般の演奏家が過去・現在を問わず自由に日本の作品のなかから選曲するというシステムで始めたのが〈日本の音楽展〉。「『スター』や時代の先端を行く『テーマ』とは異なる角度で光を当てたところにも、素晴らしい作品は山と在るのです」と語る熊谷弘氏の根底にあるのは、一般聴衆による日本の同時代作品の真の受容と、歴史のなかに横たわる数々の日本の宝を次世代に活気をもって伝えたいという願いへの、確固とした理念である。
真の受容を培うには、一般の演奏家の『好み』という照射角度が、徹底的に貫かれることになる。「その頃の、いわゆる『現代音楽』のコンサートが掲げていたテーマ性や新作委嘱初演ではありませんでしたので、『これは現代音楽の音楽会ではありません』と宣言した途端に、某新聞の事前告知に載らなくなりました」と熊谷氏は飄々と笑うが、真の受容と日本の宝を想う純粋な動機は、スタート当初の時代のなかでは、〈どちら〉からも特殊なものだったのかもしれない。
■実は数多の一般潜在層を掘り起こすことに
しかし、一般からの反応が瞬く間に変化していったことは、実績が物語っている。第1回1979年は1夜、翌年の第2回は早くも2夜に、第3回は3夜へと参加者の膨らみつれて毎年開催日を増やし、第20回1998年から6夜に。5年目に5夜になったときには、音楽評論の重鎮・宮澤縦一氏からお正月早々電話を頂戴し「これだけあるといろいろなことが言えますね」と、プログラムの多彩さとそれを十分に発揮できる規模を称えられたそうだ。
〈乖離〉していたはずの同時代作品演奏会の規模が、すぐに膨らんだとは、いったいどうしてなのだろう? 一人で一晩、全部を同時代作品のみでプログラミングできないが(選曲への自信、特別感etc.から)同時代の作品をやってみようという、または演奏してみたい作品があるという一般的な演奏家が実は数多(あまた)居たという証左なのだろう。つまり、日本の同時代作品に興味を抱く潜在層である。それを、見事に掘り起こしたのが〈日本の音楽展〉だったと言えよう。「一般の社会と同時代作品をどうつなげていくかが、私の大命題です。それは、社会全体の宝として、日本の同時代作品を共有することです。良い曲だなーと思う作品を探し、みんなに聴いてもらい、何度もその曲を演奏していく──ギャラのためでも売名のためでもなく、演奏家が心底から感銘した作品を人々と共有していくという極く基本的な形を、日本の同時代作品受容の確かな足腰づくりにも、極く当たり前に適応できたらと思っているのです」。
■真の受容を築く姿勢
真の受容を築くその姿勢は徹底している。音楽展では1997年から〈日本の音楽展・作曲賞〉を開始した。作曲賞の場合、翌年か直後に受賞作が演奏されるケースが多いが、〈日本の音楽展〉では、入賞作の演奏義務を設けず、翌年の音楽展で入賞作が演奏されない場合もある。主催した作曲賞であろうとも、演奏家の自主的選択の尊重を重んじる。熊谷弘氏自身「もっとディレクターの色を出してみたら」と言われることもあるが、発足当初こそアドヴァイス的なことをすることもあったが、20数年にわたる〈日本の音楽展〉において、選曲のサジェスチョンは一切行っていない。あくまで、演奏家が発信するという、真の受容を求める原理に揺らぎはない。
■本質的に多彩な日本のシリアス・ミュージックの魅力
それだけに当然、プログラムは多彩そのもの。たとえば今年の第5夜。中山晋平の《カチューシャの唄》もあれば、日本音楽コンクールなど多数のコンクール受賞歴をもち〈日本の音楽展・作曲賞〉も受賞している信長貴富の初演作が、いっしょに盛り込まれている。併せて、黛敏郎の《木琴小協奏曲》や武満徹のギターのための《森のなかで》、團伊玖磨、高田三郎の歌曲等も聴けるという多様さだ。「プログラムの多彩さをみなさん喜んでくださいますが、西洋音楽の技法を揺りかごにして生まれた日本のシリアス・ミュージックは、本質的に多彩さを纏っているのです。いわゆる“本家”のものが、その地の文化と混ざり合って新たなテイストを生み出す経験は、たとえば料理においては日常茶飯事で経験なさっていることでしょう。新しい地平を切り拓く大きな原動力の1つ、文化の混合──それもかなりドラスティックな混合を──日本の音楽界は身を以て体験してきました。その果実はとても魅力的です」と、熊谷弘氏も佳品の宝庫=日本の作品の魅力を語っている。
「ロックのドラマーがジャズのリズムを聴いて『新しいですねぇ』と感銘を新たにしたという話を聞いたことがありますが、ひところ『古い』と感じた作品が今、新鮮な感覚で受け入れられている傾向を最近見ます。時代の感性なのか、または、時間のなかで淘汰され本当の意味で作品が定着してきたのか。時代の感覚と作品の受容と、双方の傾向が皮膚感覚で得られます!」。音楽展は時代を映す鏡でもある。
■「生きた」指導を仰げる場
ここはどう演奏すればいいのだろう。迷ったその時、ベートーヴェンが生きていてくれたなら……。
熊谷弘氏唯一のサジェスチョンが「作曲家の所に行って聞いてください」ということ。作曲家への連絡をつけてあげることも多いそうだ。「たいていの作曲家は温かく協力してくださいます。自分の好きな曲を、作曲家に適切なアドヴァイスを受けて演奏し、みなさんに聴いていただく。とても理想的な形での演奏機会を提供できると自負していますし、作曲家のサジェスチョンを次代にも伝えていただけたらと思います」。
■出版を望む多くの声―楽譜受容に感じる真の受容
ここのところある傾向が顕著になってきたそうだ。「〈日本の音楽展〉で聴いた作品を演奏したい。どこで楽譜が手に入るのか」という、聴衆や、また、〈日本の音楽展〉で他の参加者の演奏を聴いたプレイヤーからの問い合わせが多数あるとのこと。
〈日本の音楽展〉というのは、同時代作品の思わぬバロメータとなっているのだと思う。熊谷弘氏というディレクターはいるものの、彼は決して作品を押し付ける人ではなく、また、演奏家たちは「個展」によくある「委嘱してしまったから演奏しなければならない」という束縛も受けず、ただただ純粋に「この素敵な曲を演奏したい!」という“自由”に恵まれている。この音楽展に乗った作品を見れば(また主催のシド音楽企画が行っているアンケートも貴重なデータになろう)、時代の感覚が望むもの、演奏家が真に共感し得る佳品が、浮かび上がってくる。出版事業自体かなりの経営努力を求められ、タイトな取捨選択を求められる現在、真の“需要”を見出せる鉱脈が、ここにはある。
スター演奏家ではないが、実は音楽界を形成する最多層の演奏家たちの生々しい声、意欲──まさに再創造最前線の息吹と楽しさが、日数も増えに増えた〈日本の音楽展〉には満ちている。時代の需要に応える出版、そして、出版譜でさらに演奏の裾野が拡がり、日本の作品が皮膚感覚で歴史に刻まれていく、という良循環を生むマグマが沸々と、〈日本の音楽展〉には横たわっている。 |