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日本の音楽展プログラムより「日本の音楽展」のご案内
「日本の音楽展・作曲賞」「日本の音楽展」記録


日本の音楽展30周年記念公演(XXX)プログラムより 2008年

 

 日本の音楽展 歴程30年                         

音楽評論家 上野 晃
 遂に三十年の歴程を刻んだ〈日本の音楽展〉が、どのようなリライトを試みても、ここに反芻を記すのは難しい気がして来る。いまや遙かなる1988年、第10回を迎えたときの驚異も小さくなかった。強力なパトロンや有力な後援者がいたのでも、支援組織が構えていたのでもない。因って四、五回〜まあ五年も続けば立派で、実績は消えずに残されるだろう、という観測だった。しかし、初回の一夜開催が、二年目は二夜、三年目には三夜、というように一日ずつ増していき、五年目からは五夜開催へと確実に成長。ここからが本格的な〈日本の音楽展〉の出航といえる。八年目には、九州編として福岡と筑後でも公演している。1980年代の私たちの音楽史の一部に印したこのオリジナルな演奏活動は、まさに一つの河流を成すように歴程を延ばし続けて行った。
 1979年に九人の演奏家たちでスタートした〈日本の音楽展〉は、ここが新作発表の場であるよりも、旧作や埋もれている作品に改めて聴衆ともどもその価値を問い直して向かう、というモラルが底流していた。作曲グループの作品展やそれ以上の大きい集団組織による作品披露の場が、いまや少なくない。近ごろでは、作曲家と演奏家の相互乗り入れ式の新作展、コラボレーションを唱える演奏リサイタルのタイアップ型、そして演奏家側に選択権のある現代コンサートもふえている。しかし、完全に演奏家側がイニシャティヴをとる日本作品展で、これが五日ないし六日間もかけてプログラムされるというプロジェクトは、当〈日本の音楽展〉の三十年のあいだに、他の例を少なくとも私は知らない。
 創始者で音楽監督の熊谷弘は、音楽大学作曲科の出身ながら、指揮者を目指して、まず目標を打楽器奏者として日本フィルハーモニー交響楽団に入り、オーケストラを体験した。しかし、並の打楽器奏者でないことは、かの1960年代に活動の現代音楽演奏集団〈ニューディレクション〉での彼のアクテュアルな活動が証明している。文字どおり新しい方向(ニューディレクション)を実際に経験した彼が、これに陶冶されながらも、また逆にはそれへの批判という、両様の効験から生まれたのが〈日本の音楽展〉であった。
 現代音楽の孤立やマイノリティからの脱却──日本の演奏家も聴衆も日本の音楽が一番よく解る筈だ──日本作品を積極的に評価しよう──日本の知られざる名曲にはこんなのもある──聴衆も演奏家も日本の曲をもっと愛し、慈しみ、私たちの音楽を持とう──つまり当世の私たちの本物の音楽文化を──というテーゼで貫かれて来た。これこそどこからも然したる援助を得ず、4半世紀を越えて一路、この音楽展の土台を営々と自ら築き上げた信条に等しいものというよりほかにない。
 最初期からずっと出演の続いている現代音楽のオーソリティたち、常連のエキスパート、新人の後輩連が、対等に同じステージでプログラムをこなしていく。こうした交歓交流が、この音楽展を一つのプロフェッショナルなコミュニティに生成し、伝承と蓄積が認められるようになり、次第に定着する聴衆とともに、いまや日本音楽村の観を呈している。ここには、作曲家のエゴが幅を利かせているような光景は、一切見られない。ゆえにまた、先年からの新作公募は、演奏家と聴衆とからの強い希求を表しているように思われる。
 
「日本の音楽」はどこで聞けるか?(作品・演奏・聴衆) 
作曲家 末吉保雄
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 熊谷弘と出会ったのは、1960年代の始めだったと思う。たぶんNHKのスタジオ(現在の場所ではなく、内幸町)で、教育番組の録音だったはずだ。当時は、映画、レコード、放送のあちこちで用いられる音楽は、多くが、いわゆるクラシック系の音楽家たちによって、そのつど新しく作曲、演奏され、録音したものだった。おかげで、私など、まだ「駆け出し」始めてさえいなかった若造まで注文を受け、音楽家たちはたいそう忙しかった。この頃、熊谷はすでに一頭地を抜いた存在で、難しい仕事ほど頼りにされ傑出した力を発揮していた。以来、大いに啓発され続け、今日に至っている。
 熊谷弘の主宰する日本の音楽展が、1979年1月29日、その第1回(1夜のみ)を青山タワーホール(地下鉄外苑前、建物は現存、ホールは廃業)に開催したとき、30年後こうなることを想像出来た人がいただろうか。長期の継続を疑った人たちがいたことは間違いない。しかし翌年は2夜公演、第3年は3夜、4年目は4夜、第5回にあたる1983年には、とうとう5夜にわたる音楽祭に成長を続け、早くも毎年1月半ばすぎ恒例の音楽行事として、地位を確実にしたのだった(ちなみに、私じしんは初めて、この年の第5夜に、自作「中也の3つの詩」の指揮者として出演した)。
 1986年には、5回(この年から今回まで、ずっと草月ホール)に加え、熊谷の生まれた福岡県でも2回公演した(これは、今年2月3日に開催予定の筑後特別公演に至るまで、東京外に開催した唯一の例外)。そして1988年に第10回を記念した。プログラムに9人の作曲家(伊福部昭、戸田邦雄、小倉朗、石桁真礼生、別宮貞雄、広瀬量平、三善晃、一柳慧、末吉保雄)が祝辞を寄せた。
 当時私は、日本の音楽展は、主宰する指揮者熊谷の「演奏」だ、と痛感していた。指揮者が、指揮から離れてプロデューサーという異なった仕事をしているのではない。ステージに現れなくとも、各年の全夜、そして10年のシリーズは、演奏家熊谷の音楽表現、つまり彼が演奏しようと考えている音楽の実現だと思った。そして、この音楽展が、「いわゆる現代音楽の分野にとどまらず(熊谷)」、まさに「日本の音楽展」としての多面的な広がりを形成することによって、特色と存在意義を確固としたことに、感動をおぼえた。
 これは、日本の歌曲など声楽、ソロとアンサンブルの器楽、両分野の音楽をもって1演奏会を編成する、このシンプルな原則からもたらされる。この原則の採用は、今、あたりまえ、と多くの方々がお考えかもしれない。しかし30年前、瀧廉太郎に始まる日本歌曲は、現代音楽家の多くからは「退嬰的」で、そこから離反すべきと受け取られていたし、「現代音楽は喉を壊す」と嫌った声楽家も少なくなかった。指揮者熊谷は、それを論説で云々するのでなく、日本の幅広い聴衆・音楽家・音楽作品の集まる場を設け、その場に音楽を響かせ、共有することができると考えた。
                         
 音楽は、演奏する人がいて、その演奏を人が聞きとどけるときに成立する。異論も有るだろうが、私はそう思う。
 演奏者は人に聞いてもらうために弾く。演奏には準備が不可欠で(即興演奏といっても、何もかも即製では出来ない)、演奏する人は、まず声や楽器など、音を発する手段を、その目的に適うように駆使できなければならない。古今東西の音楽は、演奏者の長期の修練(準備)と併行する。
 作曲家は、演奏家に作品を提供する。それは演奏の準備を依頼する様式であり、手順であって、聞く人たちのために演奏が実現して、漸く、作曲の最小限の目的は果たされる。
 孤独に作曲し、あるいは練習しているだけでは、それを人にどう届けられるかを考えぬことには、準備は整わず、演奏は聞き届けられるに至らない。
 1998年、「日本の音楽展」は第20回を記念した。プログラムに作曲家たちが祝辞を贈った(伊福部昭、戸田邦雄、石井歓、別宮貞雄、大中恩、松村禎三、本間雅夫、廣瀬量平、三善晃、一柳慧、金光威和雄、佐藤敏直、増本伎共子、末吉保雄、石原忠興、野田暉行、坂幸也、柳田孝義、菅野由弘、以上生年順19人)。
 [演奏家、聴衆、日本の音楽諸作品、それぞれが、仲介者を必要としている。上手に、相手に出会わせて欲しい]。当時、ここに私が記した拙文の一部である。日本には、彼ら、これらに用意された場は少ない。有るとしても限定的で、開かれた入り口は見あたらない。
 熊谷は、その日本に、「日本の音楽」の場を設営し、日本の音楽を永続的に響かせている。[熊谷氏は、希少な人である。それを20年も続けて、今、多くの人が、多くを感謝していることを記しておく]。こう書いてから、また10年経って、今を向かえている。
                         
 第30回の今年(演奏会は20回以来、年6夜開催される)、各夜の曲目編成はあい変わらず前記原則を堅持している。変化は1点、第20回を記念して創設された「日本の音楽展作曲賞」(公募・選考)、その入選・賞作品(今年は最終夜に第11回授賞式、第4夜に、前年第10回入選作品の初演が行われる)。これで、山田耕筰から新作を初演する新人世代までの広がりが実現する。
 熊谷と、シド音楽企画、彼らを支えてくださった方々に、心から、有難う、ご苦労様、おめでとうと申し上げる。
 
〈日本の音楽展〉について
音楽ジャーナリスト 小倉多美子

■前衛がまだ息づく時代に
 同時代の日本の作品がプログラムにのることが特殊視されない空気が、やっと満ち始めた昨今。そこには、モダニズムを展開した世紀がもはや前世紀となったこと、西洋一辺倒とも言えた音楽の授業に日本の伝統音楽が組み込まれるようになったこと、前衛の終焉とともに調性や旋律性など感覚的に受け入れやすい作品が回帰してきたこと等々、いくつかもの要因が重層的に織り成していよう。本当は最も皮膚感覚で解るはずの距離にある同時代の、そして同じ国の空気を吸った作品がしかし、一般の人々にとっては超マニアックに映り、またいわゆるクラシックの演奏家にとっても「意識をもってとりくむべき」だった時代に、〈日本の音楽展〉はスタートした。そして、事は、実はもっと複雑だった。

 熊谷弘氏が〈日本の音楽展〉を開始したのは、1979年の1月。1976年にチャールズ・ジェンクスの著『ポストモダンの建築』(第1版)でポストモダンという語(と傾向)が明確に市民権を得、モダニティ自体への懐疑、そして社会全体を牽引するような「大きな物語」の終焉が到来を告げようとしていた時期だったが、聴衆と作品のインターフェイスであるコンサートには──世界的に見ても──「前衛」の余韻が色濃く残されていたと言わねばならないだろう。つまり、モダニズムの所産として生み出された作品と一般の聴衆との間の溝を。そして、シェーンベルクが「私的演奏家協会」を設定しなければならなかった時代と抵抗の激しさ等の皮相的な違いはあるにせよ、一般聴衆からの「関係なさ」「無関心さ」という点では同質のものを引き継ぐなかで、いまだ、片や前衛的作品を演奏する「スペシャリスト」的な存在と彼らの演奏するコンサートと、片やそれらの作品とはほぼ無縁な「一般的な」聴衆とが、かなりの距離感をもって分離していた時代だったと言えよう。熊谷弘氏は言う。「まだまだ『前衛』という空気が満ちていた時代で、伝統的な作品と20世紀以降の作品がバランス良く自然な形でプログラミングされるようになってきた現在とは異なり、同時代作品への取り組み方は非常に偏っていたと言わざるを得ないでしょう。そしてさらに、取り組む人々にも脚光を浴びる演奏家の一団──つまりスター的な現代音楽演奏のスペシャリストたち──があり、スター演奏家たちに取り上げられない作品、または脚光を浴びない演奏家たちからの発信は、置き去りにされる傾向があったことは否めないでしょう」。

 そのなかで、テーマ作曲家を決めるでもなく、スター・スペシャリストを立てるでもなく、一般の演奏家が過去・現在を問わず自由に日本の作品のなかから選曲するというシステムで始めたのが〈日本の音楽展〉。「『スター』や時代の先端を行く『テーマ』とは異なる角度で光を当てたところにも、素晴らしい作品は山と在るのです」と語る熊谷弘氏の根底にあるのは、一般聴衆による日本の同時代作品の真の受容と、歴史のなかに横たわる数々の日本の宝を次世代に活気をもって伝えたいという願いへの、確固とした理念である。

 真の受容を培うには、一般の演奏家の『好み』という照射角度が、徹底的に貫かれることになる。「その頃の、いわゆる『現代音楽』のコンサートが掲げていたテーマ性や新作委嘱初演ではありませんでしたので、『これは現代音楽の音楽会ではありません』と宣言した途端に、某新聞の事前告知に載らなくなりました」と熊谷氏は飄々と笑うが、真の受容と日本の宝を想う純粋な動機は、スタート当初の時代のなかでは、〈どちら〉からも特殊なものだったのかもしれない。

■実は数多の一般潜在層を掘り起こすことに
 しかし、一般からの反応が瞬く間に変化していったことは、実績が物語っている。第1回1979年は1夜、翌年の第2回は早くも2夜に、第3回は3夜へと参加者の膨らみつれて毎年開催日を増やし、第20回1998年から6夜に。5年目に5夜になったときには、音楽評論の重鎮・宮澤縦一氏からお正月早々電話を頂戴し「これだけあるといろいろなことが言えますね」と、プログラムの多彩さとそれを十分に発揮できる規模を称えられたそうだ。

 〈乖離〉していたはずの同時代作品演奏会の規模が、すぐに膨らんだとは、いったいどうしてなのだろう? 一人で一晩、全部を同時代作品のみでプログラミングできないが(選曲への自信、特別感etc.から)同時代の作品をやってみようという、または演奏してみたい作品があるという一般的な演奏家が実は数多(あまた)居たという証左なのだろう。つまり、日本の同時代作品に興味を抱く潜在層である。それを、見事に掘り起こしたのが〈日本の音楽展〉だったと言えよう。「一般の社会と同時代作品をどうつなげていくかが、私の大命題です。それは、社会全体の宝として、日本の同時代作品を共有することです。良い曲だなーと思う作品を探し、みんなに聴いてもらい、何度もその曲を演奏していく──ギャラのためでも売名のためでもなく、演奏家が心底から感銘した作品を人々と共有していくという極く基本的な形を、日本の同時代作品受容の確かな足腰づくりにも、極く当たり前に適応できたらと思っているのです」。

■真の受容を築く姿勢
 真の受容を築くその姿勢は徹底している。音楽展では1997年から〈日本の音楽展・作曲賞〉を開始した。作曲賞の場合、翌年か直後に受賞作が演奏されるケースが多いが、〈日本の音楽展〉では、入賞作の演奏義務を設けず、翌年の音楽展で入賞作が演奏されない場合もある。主催した作曲賞であろうとも、演奏家の自主的選択の尊重を重んじる。熊谷弘氏自身「もっとディレクターの色を出してみたら」と言われることもあるが、発足当初こそアドヴァイス的なことをすることもあったが、20数年にわたる〈日本の音楽展〉において、選曲のサジェスチョンは一切行っていない。あくまで、演奏家が発信するという、真の受容を求める原理に揺らぎはない。

■本質的に多彩な日本のシリアス・ミュージックの魅力
 それだけに当然、プログラムは多彩そのもの。たとえば今年の第5夜。中山晋平の《カチューシャの唄》もあれば、日本音楽コンクールなど多数のコンクール受賞歴をもち〈日本の音楽展・作曲賞〉も受賞している信長貴富の初演作が、いっしょに盛り込まれている。併せて、黛敏郎の《木琴小協奏曲》や武満徹のギターのための《森のなかで》、團伊玖磨、高田三郎の歌曲等も聴けるという多様さだ。「プログラムの多彩さをみなさん喜んでくださいますが、西洋音楽の技法を揺りかごにして生まれた日本のシリアス・ミュージックは、本質的に多彩さを纏っているのです。いわゆる“本家”のものが、その地の文化と混ざり合って新たなテイストを生み出す経験は、たとえば料理においては日常茶飯事で経験なさっていることでしょう。新しい地平を切り拓く大きな原動力の1つ、文化の混合──それもかなりドラスティックな混合を──日本の音楽界は身を以て体験してきました。その果実はとても魅力的です」と、熊谷弘氏も佳品の宝庫=日本の作品の魅力を語っている。

「ロックのドラマーがジャズのリズムを聴いて『新しいですねぇ』と感銘を新たにしたという話を聞いたことがありますが、ひところ『古い』と感じた作品が今、新鮮な感覚で受け入れられている傾向を最近見ます。時代の感性なのか、または、時間のなかで淘汰され本当の意味で作品が定着してきたのか。時代の感覚と作品の受容と、双方の傾向が皮膚感覚で得られます!」。音楽展は時代を映す鏡でもある。

■「生きた」指導を仰げる場
ここはどう演奏すればいいのだろう。迷ったその時、ベートーヴェンが生きていてくれたなら……。

熊谷弘氏唯一のサジェスチョンが「作曲家の所に行って聞いてください」ということ。作曲家への連絡をつけてあげることも多いそうだ。「たいていの作曲家は温かく協力してくださいます。自分の好きな曲を、作曲家に適切なアドヴァイスを受けて演奏し、みなさんに聴いていただく。とても理想的な形での演奏機会を提供できると自負していますし、作曲家のサジェスチョンを次代にも伝えていただけたらと思います」。

■出版を望む多くの声―楽譜受容に感じる真の受容
 ここのところある傾向が顕著になってきたそうだ。「〈日本の音楽展〉で聴いた作品を演奏したい。どこで楽譜が手に入るのか」という、聴衆や、また、〈日本の音楽展〉で他の参加者の演奏を聴いたプレイヤーからの問い合わせが多数あるとのこと。

 〈日本の音楽展〉というのは、同時代作品の思わぬバロメータとなっているのだと思う。熊谷弘氏というディレクターはいるものの、彼は決して作品を押し付ける人ではなく、また、演奏家たちは「個展」によくある「委嘱してしまったから演奏しなければならない」という束縛も受けず、ただただ純粋に「この素敵な曲を演奏したい!」という“自由”に恵まれている。この音楽展に乗った作品を見れば(また主催のシド音楽企画が行っているアンケートも貴重なデータになろう)、時代の感覚が望むもの、演奏家が真に共感し得る佳品が、浮かび上がってくる。出版事業自体かなりの経営努力を求められ、タイトな取捨選択を求められる現在、真の“需要”を見出せる鉱脈が、ここにはある。

 スター演奏家ではないが、実は音楽界を形成する最多層の演奏家たちの生々しい声、意欲──まさに再創造最前線の息吹と楽しさが、日数も増えに増えた〈日本の音楽展〉には満ちている。時代の需要に応える出版、そして、出版譜でさらに演奏の裾野が拡がり、日本の作品が皮膚感覚で歴史に刻まれていく、という良循環を生むマグマが沸々と、〈日本の音楽展〉には横たわっている。



 日本の音楽展30周年に寄せられた作曲家諸氏よりのメッセージ

 (日本の音楽展(XXX)プログラムより 2008年)

祝「日本の音楽展」三十周年

 わが国の音楽歴史をふりかえってみても、この「音楽展」は音楽の世界の流れに新しい息吹と刷新と方向性の確立をもって活動をはじめた。新運動であり歴史の始まりでもある。
明治初期音楽事始め以来西洋音楽偏向の強い音楽界では邦人の作品展や演奏会で取りあげる邦人の作品は限られており、専ら西洋的志向の方向性にあった。常々日本語で作曲し、日本語で歌うごく自然な働きが出来ないものかと考えていたものである。
そこに熊谷氏が「日本の音楽展」を立ちあげ、多くの諸問題をかかえながら三十年の長い月日をかけて音楽展の労作に努力され立派な業績を残されている。大へん有意義な運動であり、心に残る邦人作品の再発見でもある。最初は「三夜」の音楽展で私も第三回に野口龍(Fl)山口昭二(Br)菊池百合子(P)三氏の演奏による「誦承」を出品している。
以後、音楽層の輪も拡がり現在は「六夜」の大きな音楽展になっている。
今年で三十周年を迎え日本の音楽展の発展に大きな力を注がれたことは偉大である。拍手をおくりたい。
熊谷氏をはじめスタッフの皆さんの今後のご活躍を祈念します。
渋谷 澤兆(1930年4月生)
音楽展30周年によせて
 毎回六夜に亘る演奏家による作品の祭典が30年も続いているという前代未聞の驚異の記録は熊谷さんの人間的な魅力に拠っているところが大きいと私は思っている。集まってくるたくさんの音楽家たちは、ある時は自らの演奏家としての立場でアドバイスしある時は作曲家への大きな理解者として存在する熊谷さんの下で、安心して実力を発揮できている。新しい発見をその都度感じるのもこの辺に理由がある。「はだかの島」は斉藤玲子さんによって3回目になるが、彼女自身のたぎる思いで求め続けた結果ある高みに達したと言えるもので、厳寒の海に孤立する裸の島を目の当りに見るような瞠目の演奏は、このステージで生まれたもので、音楽展30年の軌跡を示す一つであろうと私は勝手に思っている。
田中利光(1930年7月生)
「日本の音楽展」30年として
「日本の音楽展」30年おめでとうございます。自分もまたささやかながらその企画に参加し、微力ながら協力出来ることを嬉しく思います。 
 「継続は力なり」の言葉のようにここで芽を出した若木がいつか巨木となり、やがて大地に確固たる根を張る森に育つことを願っています。 
 この夢を実現させるべく努力と実践につとめてこられた熊谷弘さんに大きな、讃辞を捧げます。
廣瀬量平(1930年7月生)
熊谷弘 讃
1979年より開催してきた「日本の音楽展 主宰:熊谷弘さん」(株シド音楽企画 代表 松崎三恵子さん)が記念すべき30周年を迎えます。日本の作曲家を特集したこの壮大な企画の実現とその持続を思うとき、主宰者である熊谷弘さんの英知とスタッフのご努力に心からの敬意と感謝を捧げるしだいです。この音楽展のことですが、第一回目は一夜限りの音楽展でした。第二回目は二夜、第三回目は三夜というように毎年その規模を広げ、第五回目からは五夜連続の演奏会となり、しばらくそれが続いた後、なんと六夜連続という未曾有の作品演奏会となりました。熊谷さんがプロデュースするこの演奏会の特色は、名ある作曲家から新人の作曲家まで、偏見のない幅広い選曲がなされているところにあります。と同時に演奏家の起用も多彩で、名ある演奏家はもとより、音大を卒業したばかりの未来を嘱望される演奏家にスポットライトを浴びせ、いまやこの「日本の音楽展」は新人の登竜門としての大切な役割を果たしているのです。熊谷さん本当におめでとう、そしてありがとうございます。
湯山 昭(1932年9月生)
日本の音楽展XXXへのメッセージ
熊谷さん。30周年おめでとう。よく頑張ったね。でも、今こそ力を出して張り切ろう。これからもっと若返って「音楽展」の広がりも根強く開拓しよう。そうして、頂点がもっともっと高くなって、見晴らしも呼びかけも効く。僕の音楽観のすべてをかけて、熊谷さんを応援するよ。みよしあきら。
三善 晃(1933年1月生)
「日本の音楽展」三十周年に寄せて
“日本の音楽展”の独自性は既に皆さまご存知の、“演奏家が選んだ邦人作品展”という、他に追随を許さないスタンスそのものにあると言えよう。
このたび三十周年を迎えられるということは、一年に数夜としても、百数十回に及ぶコンサートを、着々と開催しつづけて来られた、指揮者そして作曲家である熊谷氏、そしてシド音楽企画の松崎氏の常ならない情熱なくしては考えられない。  西洋音楽史は、世界の歴史に比して年数の新しいもの(バッハ生誕の十七世紀後半は、既にルネサンスから三世紀も経ている。)であるところへ、明治時代の“音楽取調べ所”に始まる西洋の音楽手法の導入は、更に日の浅いものである。殊に邦人作品は、作曲本来の独自性の追求という点から、暗中模索の積み重ねであったと言えよう。
これを、“地に足のついたものとして育てなければ”と熊谷氏は考えられた。
暖かい、そして むしろ熱い心で。
今ここに、この困難を乗り越えた「日本の音楽展」が演奏家のチョイスに耐える確たる存在として光を放ち始めた。
三十周年、心からおめでとうございます。
田中友子(1933年9月生)
偉業をたたえます
 ついに30回目という大きな節目を迎えた「日本の音楽展」。1夜だけの催しから始まり、ついに1週間の定例行事にまで成長・発展しました。「演奏家が自ら選んだ日本の作品で演奏会を」と提唱した熊谷氏の真摯な理念がまっすぐ貫かれたまま迎えた第30回に、明るいものを感じます。プログラムは新・旧、または諸様式の作品が混在して一見無定見のようですが、そんなことは百も承知の上で筋道を曲げずに進めてきた熊谷氏。偉業と言いたいのは、30年の長さ自体よりも、余人のなしえなかったこんな大きな大切な企画を、自ら発足させ、継続・成功させた実績についてです。畏敬の念とともに心からの賛辞をお送りします。その主宰者熊谷氏、そして拙作品を演奏してくださった演奏家の方々、さらに聴いてくださったすべての方々に厚く感謝いたします。
金光威和雄(1933年10月生)
 熊谷さんは、40年ぐらい前に、いわゆる「クラシックおたく」ではない、一般のサラリーマンをターゲットにした「クラシックス」というコンサート・シリーズを始められて以来、終始一貫して、聴衆のことを考えられた楽しく、且つ聴き応えのあるコンサートを心がけて居られるように、私には思えます。それが、毎年末の「第九と皇帝」であったり、「日本の音楽展」であったりするわけです。とくに、「現代音楽」を特別扱いされずに「こういう音楽もあるよ」みたいな感じで、「日本の音楽展」の中に持ち込まれ、なんの先入観や効能書きもなしにお客に楽しんでもらう、という行き方は見事です。
 斯く云う私も、今や70代のおばあさんになりましたが、お付合いの当初から変わらぬ、氏の若々しさとプラス志向、そして演奏家というものを識り盡くしたコンサート作りの姿勢に、ただただ脱帽。今後の益々の御繁栄をお祈り申し上げます。
増本伎共子(1937年2月生)
第30回へのメッセージ
 音楽は、伝承の、ある仕方、在り方と言えるでしょうか。昔からの様々を受け、次代に伝える、それは日本の伝統芸術に限りません。旧石器時代の遺跡に石、骨製の笛が残されているそうで、メロディーは失われても「笛の音」のつくる音楽領域をイメージすることが出来ます。日本のフルート音楽は、この長い伝承の先端に位置しています。
 熊谷さん、「日本の音楽」を次代に渡してゆくために、我々の世代の勤めを、おたがいに続けてゆきましょう。そして、第40回の祝辞を記す光栄に預かれるよう願っています。
末吉 保雄(1937年3月生)
「日本の音楽展30周年おめでとうございます」
 日本の音楽展を主宰されている「熊谷弘先生」は、私の郷里の先輩であり大学の先輩であり、私の作曲の師クラウスプリングスハイム門下の兄弟子です。
 私にとって熊谷先輩は、海原の灯台のような方です。また日頃ご無沙汰をしていても、お会いすれば同じ体質の人間同士すぐに打ち解けてしまいます。
 その熊谷先輩が、日本の作曲振興のため日本の音楽展を開催された当初も驚きでありましたが、その偉業が30年続いたとのこと、日本の作曲界にとって喜ばしいかぎりです。
 今後とも、ご健康にご留意され日本の音楽界のため益々ご活躍下さることを祈念いたします。
文教大学学園理事長 田村 徹(1938年1月生)
 <「日本の音楽展」30周年に寄せて>
「日本の音楽展」30周年おめでとうございます!
 そうですか、もう30年になるのですね。
 あれは確か最初の頃だったかしら、音楽展がきっかけで毎年新しい作品を書いたのは・・・。様々な演奏家たちが書き上がった作品を年々の「日本の音楽展」で披露し、また、演奏家たちは初演後もそれらの作品を繰り返し取り上げて下さり、わたくしの創作にも大いに反映して来ました。
 楽譜として書かれた作品は、演奏を通して音楽実現するのですから、熊谷さんと“シド音楽企画”がその接点を見つめ、「日本の音楽」を現実のものとし、展開して行こうと努めて来られた、ということは、まことに有り難く、また喜ばしいことではあります。
石原忠興(1940年1月生)
 「日本の音楽展」が30周年を迎えられると伺い、あらためて、重ねてこられた歴史の重さに感慨をおぼえずにはおれません。おめでとうございます。
 ただ一言でおめでとうという言葉では申し上げられない深い感慨です。この長い時を変わることなく進めてこられた熊谷さんの強いご意志と情熱に、一作曲家としてただただ熱い感謝と敬意を捧げる次第です。何ものにも代え難いこのお気持ちと御労苦によって、この貴重なお仕事が成し遂げられました。
 このように日常的に日本の作曲家の作品が演奏される機会はとても珍しいことであり、この会の存在は誠に意義深いと言わねばなりません。作曲家にとっての意義は言うまでもなく、同時に若い演奏家には登竜門のような存在であり、そのスタンスは他に例をみないユニークなものであります。この会のポリシーがますます広く浸透し、充実した新たな未来が生まれますよう、心よりお祈り申し上げます。
野田暉行(1940年6月生)
「日本の音楽展」30周年に寄せて
 「日本の音楽展」が、今年で30周年を迎えられたことを、心からお祝い申し上げます。主宰者である熊谷弘氏とシド音楽企画の皆さまに対し、深く敬意を表します。作曲家の会が主催する演奏会は珍しくありませんが、この音楽展のように、演奏家の側からの視点で選曲し、毎年、それも一週間近くにわたり多数の演奏家が邦人作品を演奏するという発想は、ほかに類を見ません。音楽作品は、苦労して紙の上に書いても、書かれた譜面だけでは何の価値もありません。演奏して下さる方々と、会場に足を運んで耳を傾けて下さる聴衆とによって、初めて“生命”が吹き込まれます。
 私も今までに何曲か取り上げて頂きましたが、日頃はそれと意識していない「日本の音楽」への〈共感〉を、心の奥深くから汲み上げられるような不思議な体験をさせられました。
 このような企画を続けていくことには、想像を絶する困難がつきまとうと思いますが、〈執念の人・熊谷弘氏〉によってこれからもますます着実な活動を展開されますよう期待致しております。
堀 悦子(1943年2月生)
「日本の音楽展」30周年によせて
 おめでとうございます。
 ひとつの創造的な演奏会企画が30年間・数百日続いたことは、私たち文化芸術を愛するひとびとの全てに、至福の歴史を残してくださったことになります・・・仕掛けはシンプルなように思われます。現代音楽・演奏の場の提供・聴衆の拡がりなどがキーワードになり、自由な表現のスペースが確保されました。若い音楽家には業績を築くこともできたでしょう。しかしこの企画の奥には「日常的な音楽に於ける“協働”」が込められていたように思われます。シンプルなことにより多くのひとびとの支持を得て継続されたことになります。最も困難で難解な現代音楽が核であったことは、驚異でさえあります。主宰の熊谷先生、ご参加の作曲家・演奏家・聴衆のみなさま・陰で支えてくださった多くのひとびとに、私も本企画を愛してきたひとりとして、感謝申し上げたいと思っています。 
 本企画で生まれ育ったひとや音楽が、時間と国境を越えて更につながって行くことを祈っています。
日本現代音楽協会副会長兼現代音楽教育プログラム研究部会長 坪能克裕(1947年10月生)
日本の音楽展へのメッセージ
 熊谷先生、シド音楽企画の関係者の皆様、日本の音楽展が今年で30回目を迎えられたことを心からお祝い申し上げます。この30年間1度も途切れることなく、それも毎年真冬の一週間、演奏プログラムを組み日本人の作品だけを演奏するという企画が続いたのは素晴らしいとしか言いようがありません。どのような企画であっても30年先までずっと続けることを考えただけで目が眩む思いがします。
日本の音楽展が始まった当時と現在とでは作曲の潮流も随分変化しています。しかしこの音楽展では時代の流れに関らずいろいろな作品が取り上げられており、演奏家が主体となる音楽会としては当然のありかたを実践されてきたわけです。
 これからもこの音楽展が活発に発展されることを期待してお祝いの言葉といたします
柳田孝義(1948年3月生)
祝 ! 日本の音楽展30周年記念
 21世紀に入って8年目の今年、日本の音楽展は30年、「継続は力なり」と良く言いますが、まさにこの言葉が相応しい活動歴。執念の30周年、本当におめでとうございます。音楽を生み出すのは作曲家ですが、それを育てるのは演奏家とお客様です。その音楽が育つかどうかの鍵を握る演奏家の視点(聴点)から作品を選び、音楽として発信する、「そういう活動を推進することが文化創造だ」といった言葉はあちらこちらで聞かれますが、それを実践している所はほとんどありません。そんな中で何と30年も、しかも毎年6夜に渡るシリーズとして続けられているのは、驚異としか言いようがありません。が、執念などと書きましたが、熊谷弘さんを見ていると、どうもこの言葉が当てはまりません。音楽を愛してヒョウヒョウと続けて来ただけ、とご本人も仰ることでしょう。見る限り、まさにそうです。自然体だからこそ続いている、と。淡々と歩み続け、その後ろには確実に道ができる。皆が集う素敵な道が、これからも続いて行くことを、こころから願っています。
菅野由弘(1953年10月生)
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