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日本の音楽展

洋楽寄席に行ってきました!


洋楽寄席-2006-(秋ノ巻)体験レポートです。
       

◆10/25 落語も音楽も
 司会の前口上にこんな言葉があった。
「洋楽寄席は気楽に楽しんでいただける音楽会です。」これを聞いて、私はあるテレビ番組で見かけた一人の噺家の言葉を思い出した。
 その人は<若い人にも寄席小屋に足を運んでもらいたい>という願いを持ち、落語を身近に感じてもらおうと親子連れや若い人を中心に声をかけ、小さな会場で落語会を開いていた。
「生で聞いたことのない人の中には、どこか違う世界のもの、と思っている人もいるんですよね。」 
 クラシック音楽もまた然り、と思った。何かがきっかけでブームになれば、それまで興味のなかった人も振り向くのだろうが、身近に感じたことのない人にとっては、いつまでも特別な存在のままである。
 洋楽寄席には、面白さも感動も意外性も詰まっている。音楽の様々な面を知きっかけにしてはいかがだろうか。(GM)

◆11/7 心通う音楽
 声楽3人、ピアノ4人、ギター1人という組み合わせで会が進んだ。ぎっしりと埋まった熱気ある客席には、演奏者から飛び出す音楽を心待ちにしているような雰囲気が感じられた。
 心をほぐしてくれるような演奏は、ジッと聴いている緊張感から開放し楽しませてくれ、情景が浮かぶような演奏は、映画を見ているように次々と場面を思い巡らすことができる。懐かしい気持ちになれる演奏は、昔の思い出が蘇りもする。
 奏者の思いが聴衆の心に届いた時、いつしかその様々な思いはひとつになり奏者へ向けられ、それが奏者に伝わった時、会場はひとつになるのだと思う。
 心通う音楽、そこには大きな感動も生まれる。(GM)
 

 

 

 

 

 

 

 

 



洋楽寄席-2006-(夏ノ巻)体験レポート
      

◆6/26(月)  演奏は自己表現
 夏の巻初日を聴く。
 今日はピアニストが6名。以前の洋楽寄席で、ピアノの演奏を続けて聴いた事があった。その時は、同じ楽器を使っているのにもかかわらず、全く違うそれぞれの音色に驚かされた。今日もそんな体験が待っていると思いワクワクする。
 演奏が始まり、数名のピアニストの演奏を聴くと、いつのまにか以前とは違う視点で聴いている事に気付いた。『何故この曲を選んだのだろう』『どんな思い入れがあるのだろう』『何を私達に伝えたいのだろう』音だけではなく、奏者の気持ちに思いを馳せ、人となりを想像する。以前感じた音色の違いは、テクニックだけではなく、一人一人の心情のあらわれを無意識に感じ取っていたのかもしれない。だとするならば、演奏の向こうに垣間見える個性に興味を持つのも自然な事だろう。
 演奏とは楽器を使った自己表現であるということを再確認させられた。 (仁戸露鈴)

◆6/27(火)  居心地のよさの秘密
 洋楽寄席は、噺家さんのテンポのいい司会とともに進行していく。この会の魅力のひとつだ。開演間際の客席の、なんとなくそわそわした雰囲気も、噺家さんの登場と前口上によって落ち着いていく。
 演奏後のトークにおいては、奏者の素顔が見事に引き出される。また、出演者が客席の間を通って出入りすることも、聴衆にとっては大いに親しみを感じられるひとときである。
 ほぐれた気持ちで聴く演奏は、スーッと自分の中に入ってきて、こんなに気持ちのいいものはない。(GM)

◆6/28(水) ドラマの結晶
 夏の巻三日目を聴く。
 いつものごとく、楽しみながら聞いているうちに、ふと思う。当たり前のように行われている演奏の陰には、どんな日々の鍛錬が隠れているのだろうかと。
 テレビで、ドラマや舞台などの裏側にスポットを当てた番組が放映されることがある。想像を絶する厳しい練習や、目標のためには時間や労力を惜しまない姿、そこにはもう一つのドラマが存在する。
 そして再びステージに目をやり、考える。この奏者の向こうには、どのようなドラマがあるのだろうか。今私たちが耳にしている演奏は、どんなドラマから生まれたのだろうか。どの奏者の表情からも、ドラマの内容はまったく感じられない。しかし、確実に存在するであろう一人一人のドラマ、その結晶である今宵の演奏、そんな風に考えると、今この時がとても貴重な時間に思えてならない。一度きりしかないこの時間、全身で楽しみたい。(仁戸露鈴)

◆7/10(月)  コラボレーション体感
 今日は洋楽寄席に通うようになってから、初めての体験をした。いつもは司会と落語を受け持っている噺家さんが、演奏に参加?したのだ。
 アコスタディオを飛行機の機内に見立て、フルート奏者がパイロット、噺家さんが客室乗務員、観客が乗客となり世界中を巡る旅に出る。フルートとピアノによって奏でられる世界各国の音楽、その曲間で噺家さんのナレーションが笑いを誘い、観客も絶妙な間で拍手。奏者、噺家、観客のコラボレーションである。
 この日、ワールドカップの決勝戦が行われた事にちなんでの企画であったが、ステージと客席が一体となれる手頃なサイズのアコスタディオと、噺家さんがいる洋楽寄席ならではの演目を、心から楽しんだ。
 洋楽寄席の新たな可能性を見た気がした。 (仁戸露鈴)


◆7/11(火)  色いろいろ
 アコスタディオは、木の温もりの伝わる小さな会場だ。客席と高さの変わらない舞台は、一色のライトによって照らされている。
 しかし、今回は照明が変わるわけでもないのに、奏者が替わる度に舞台の色が変わっていくように感じられた。時には自分の居る場所までが染まっていくように思えた。今まで何度か足を運んできたが、このように感じて聴いたのは初めてのことだった。
 8人の個性によって彩られる世界。音によって伝えようとしているものがそれぞれに異なることを、改めて感じられたような気がした。もしまた同じ顔ぶれで会が開かれたとしても、音楽が変わればまた違う色合いを感じられるのだろう。織り成される彩、これからも楽しみにしたいと思う。(GM)

◆7/14(金) はじめまして
 この夏、初めて洋楽寄席に行きました。今まで体験レポートを読んで様子を思い浮かべてはいましたが、アコスタディオが想像以上に小さなホールだったことに、まず驚きました。
 大きなホールで演奏を聴くことが多かったので、(こんなに客席が近くては演奏する方もやりにくいのでは・・・)、(出演者と目が合ってしまって居づらいのでは・・・)、と要らぬ心配をしてしまいました。
 本当に要らぬ心配でした。むしろ近いことで演奏している方と同じ空間を共有していることを感じられ、表情も動きも息遣いも伝わってきて、臨場感溢れる演奏を楽しむことが出来ました。
 また、私の中で結びつかなかった「クラシックコンサートと噺家さん」も、司会やトーク、落語がなんの違和感もなく溶け込んでいて、新しいものに出会えた喜びを覚えました。
 是非また行きたいと思います。(輿瀬)

 

 

 

 

 

 

 

 



洋楽寄席-2006-(春ノ巻)体験レポート
      

◆4/17 無限の魅力
 今日は春の巻初日。昨年の夏の巻に初めて洋楽寄席を聴いてから、今回で春夏秋冬すべてのシーズンを体験したことになる。この春の巻にも今日を含め2日間通うつもりであるが、今回のレポートでは私なりに一年を通じて感じた事を書いてみたいと思う。
 洋楽寄席は見る人聴く人それぞれの、その日の体調や気分等によって、まったく違うものに感じられることだろう。お気に入りの奏者の演奏に聴き入る、それぞれの楽器の持つ音色に聞き惚れる、奏者の真剣な表情に見入る、落語に大笑いする等など。聴き手によって楽しみ方は無限ともいえるかもしれない。これは、何度も通ってこそわかる、そして発見していく洋楽寄席の魅力なのだろう。
 もしかしたら今日の観客の中にも『今日はちょっと時間が空いたから、洋楽寄席にでも行って見ようかな』なんて軽いノリで足を運んでいる『通』がいるのかもしれない。そう思ったらなんだか負けていられない気分になってきた。明後日も来るぞ!(仁戸露鈴)

◆4/18 もうひとつの顔
 自分でデザインしてビーズアクセサリーを作る。カラオケボックスに楽器を持ち込み練習する。お酒は何でも好きで、毎日缶ビール一本は飲む。ゲーム音楽を聴きとり楽譜に起こす。3日前から発汗作用のあるスクラブを塗って部分ダイエットを試みた。肩こりを父親の気で治す。山3つ分の広大な墓地で、やっとの思いで目的のお墓を探しあてた。本番用の靴を銀行に置き忘れ取りに行った。
 これは、演奏終了直後に司会の五街道佐助さんによって聞きだされた、この日の出演者たちそれぞれの悲喜こもごもの話(の一部)である。実に様々な内容だ。
 なぜこんなに覚えているか。それは、それぞれが演奏中とは全く違う顔をしていたからだ。逆の言い方をすれば、演奏中奏者は日常とは違う世界に入り込んでいる、ということになる。とてつもない集中力で自己の世界に入り込み、音と共にその世界を広げていく。そして、演奏が終わり拍手を浴びると、スーッと日常に戻ってくる。それが演奏中の燐とした顔と全く違うのだから面白い。小さな会場だからこそ味わえるものだ。楽しまない手はない。(GM)

◆4/19 答えを探して
 前回は観客の立場から洋楽寄席について考えてみたが、今回は奏者の心理を想像してみたいと思う。
 何度も通っていて、つくづく演奏とは生き物のようだと感じる。同じ奏者の演奏を聴いても、けして同じということは無い。前半緊張気味でも徐々にほぐれてきて、まるで別人のようになることもある。客席から『うまい!』などという声がかかれば、さらに奏者も勢いづく。これは、奏者が自分だけの世界で演奏しているのではなく、観客の反応を常に意識しながら演奏している証拠だろう。しかし、反応とは決して良い物だけではないはずだ。以前にも書いたが、洋楽寄席は観客の反応がダイレクトに感じられる。ある意味奏者にとっては厳しい場かもしれない。その様な場にあえて奏者が出演し続けるのは何故だろう・・・それは奏者一人一人が、観客に受け入れられるにはどうしたらいいのか、日々模索をしている表れなのではないだろうか。その答えを見つける数少ない場所の一つが、洋楽寄席なのだろう。そんな真摯な姿に私達は惹かれ、つい足を運んでしまうのかもしれない。(仁戸露鈴)

◆4/24 「並んでいる」ことの凄さ
 洋楽寄席のチラシを拝見するにつけ、実際の演奏を目の当たりにするにつけ、様々な演奏形態があたりまえのように「並んでいる」ということに、毎回毎回驚かされる。なぜなら、こういう場合次のような問題が生じるからである。
 一般的には、大きな音を聞いた直後の小さな音は聞き取りにくく感じ、小さな音を聞いた直後はさほど大きくない音でも耳障りに感じられたりする。これが極端かつ煩雑であった場合、音は次第に不快なものとなり、結果的に個々の演奏の素晴らしさを聴き逃してしまうだろう。加えてアコスタディオのような小空間、しかも電気的に操作されることのない生の音である。よほど慎重に考え抜かれた演奏順と、会場の響きを知り尽くした演奏家の技量がなければ、最初から最後まで聴くことはほとんど不可能といってよい。
 今夜も居心地よく洋楽寄席を聴くことが出来た。もちろん最初から最後まで。実はそれこそが大変な「凄さ」なのだ。(杜志夫)

◆4/25 洋楽寄席に行こう!
 この日の噺家さんが初登場であることを聞いて、ふと自分が初めて洋楽寄席に足を運んだ時のことを思い出した。
 ビルの入り口に置かれる「洋楽寄席」と大きく書かれた看板を、私はときどき見かけていた。落語でもやっているのだろう…と思いながら、いつもその前を通り過ぎていたが、ある時その立派な寄席文字に誘われ、思い切ってビルの中へ足を踏み入れてみた。
 そこで行なわれていたのは、落語会ではなく、噺家の司会で進行し、落語も一席聞ける変わった演奏会だった。会場は、狭いながらも木の壁に囲まれた居心地のよい空間で、演奏者の表情も動きも息遣いも、実によく伝わってきて驚いたのを覚えている。また演奏直後の出演者と司会者のトークは、観客にも話しかけるようなアットホームな雰囲気で進み、私にとっては、初めて味わう「肩の凝らないクラシックコンサート」となった。
 その後何人か友人を誘ったが、クラシックはどうも、と断られた。やはり衿を正して聴く、というイメージを拭えないらしい。だが、洋楽寄席に行けば絶対にその考えは変わる。私自身がそのいい例だ。   
 もしこのレポートが目に留まって興味を持ってもらえたら、もしビルの入り口の看板が気になっていたら、是非洋楽寄席に足を運んでみてもらいたい。新しいクラシックの世界が開けること間違いなしだ。(GM)

◆4/26 「その人」を感じることの素晴らしさ
 これは洋楽寄席の話ではないのだが、「間近で聴かれるのは辛い」「最前列の聴衆が気になって集中が途切れることがある」という演奏家の発言を聞いたことがある。人によって様々だとはいえ、この発言は残念なことである。なぜなら最前列の聴衆こそがもっとも演奏家の世界に歩み寄っていると言えるからである。間近にいる聴衆は、音のみでなく、演奏を通じて演奏家「その人」をも感じることになろう。演奏家もまたそうした聴衆の息づかいや身じろぎ、笑顔や拍手を通じて、マスとしてではなく、聴衆「その人」一人一人を感じることになるであろう。そうした魂の交歓が成された時、アコスタディオはこの上なく豊かで濃密な時の流れに充たされるのである。
 「時を忘れて」とはよくぞ言ったものだと思う。洋楽寄席はまさに「時を忘れ」させてくれる。先行きの見えない世の中に失望し、様々な日常の垢にまみれながら暮らしている人々の心を癒すオアシスとして、これからますますの発展に期待したい。(杜志夫)

 

 

 

 

 

 

 

 



洋楽寄席-2006-(冬ノ巻)体験レポート
      

◆2/14 洋楽寄席 on バレンタインデー
 今日の洋楽寄席は、今まで味わったものとは少し違っていた。もちろん毎回顔ぶれが変わるのだからその度に違って当然なのだが、いつにも増して出演者と観客との距離が近かったように思えた。物理的な距離ではない。お互いに心が通い合っている、そんな気がした。
 始めに、司会の春風亭一之輔さんが「洋楽寄席」について解説してくれた。自己紹介に続き自分が司会をしながら進めていくこと、演奏が終わる度に出演者とのトークがあること、後半が始まる前に落語を一席聞いてもらうこと。この丁寧な説明が、客席の緊張をほぐした。その後の客席は、演奏には集中、トークにはまるで自分が一緒に話をしているかのように相槌をうち参加。落語の時も大いに沸いた。また後半には、ある出演者から演奏後に来場者全員へバレンタインプレゼントがあり、思わぬ贈り物に会場中大興奮。さらに和気藹々となり、トークでは客席から質問まで飛び出した。
 もちろん和んだ理由はそれだけではない。出演者たちの、心に触れる演奏があったからこそである。音に込められた様々な奏者の心を共有できたからこそ、あの場にいる者だけが味わえる時間を楽しむことができたのだと思う。また他の日も聴きに行こう。今度はどんな心に触れられるか、楽しみだ。(GM)

◆2/15 詰め合わせ菓子の「2段目」 
 話は前回から続くのだが、詰め合わせ菓子の中には箱詰めで2段重ねになっているものがある。「1段目」の底をひょいと取ってみるとそこに「2段目」が…!大甘党の私などにとって、これはたまらない瞬間。
 洋楽寄席の場合、噺家とのトークが「2段目」にあたる。それぞれの演奏の、充実し、集中し切った時間が過ぎると、楽しい時間がやってくるのだ。話題は、演奏家のコンサートの宣伝になることもないではないが、多くの場合音楽から大きく離れ、気さくな世間話や最近の失敗談、そしてトリビアの類であることが多い。中にはこんな事をこの人が?と驚くような話が聞けたりする。そして演奏からだけではうかがい知ることの出来ないその人の人となりが伝わり、さらに親しみを深められるのだ。
 音楽の詰め合わせである洋楽寄席に仕掛けられた美味しい「2段目」…それが嬉しく、また楽しみでもある。(杜志夫)

◆2/17 一日一日を大切に・・・
 小雪がちらつく中アコスタディオに向かう。いつも通り地下へ降り受付を済ませたが、ちょっと風景が違う。よく見るといつも入口正面にある受付用の長いテーブルが見当たらず、入口脇の小さなテーブルでスタッフが窮屈そうに受付作業している。いつもよりロビーはいくぶん広々としている。これはお客様への配慮なのだろうか?会場に入ると中央の通路が広く、会場全体がゆったりした印象だ。多少の違和感を覚えながら開演を待つ。
 そして開演。マリンバのソロが終わりトークが始まるとスタッフが巨大なマリンバの搬出をはじめた。そうか、この為に通路もロビーも広くしてあったのか!と納得。舞台の端によけてあったピアノも中央に戻され次のセッティングが整う。もちろんその間もトークは続いている。
 そんな光景を最初に見たせいだろうか、今日はついついスタッフに目が行く。いつもながらスピーディーな高座の組み立て、歌の伴奏ではピアノは中央、ユーフォニアムの伴奏では舞台下手に斜めにセッティングするなど、実にきめ細やか。しかし決して邪魔にはならない。演奏者のこだわりや工夫を、出来る限り叶えようという姿勢に好感を覚える。
 奏者の『精一杯表現したい』という姿とスタッフの姿の相乗効果だろうか、この洋楽寄席には『一度きりの演奏に努力を惜しまない』という姿勢がにじみ出ているように思う。『一回一回、一日一日を大切に』。こんなところでも、私たちの日常において大切な事を再確認することが出来た。(仁戸露鈴)

◆2/20 修行の場としての洋楽寄席
噺家にとっての洋楽寄席とは、実は厳しいアウェーの場なのでは?と思うことがある。めくりにあるいかにも読みづらそうな作曲家や曲の名を紹介すること、トークから演奏家それぞれの人となりを引き出すこと、クラシックのコンサートの中途での一席など、そこにはかなり特殊な「課題」があるようにも思える。
 一方、演奏家にとっても洋楽寄席は生やさしい場とは言えまい。まず第一にこの近さである。演奏家のすべてをお客に見つめられているといってよい。そこへ持ってきて演奏直後─おそらくはただならぬ精神状態の中での噺家とのトークである。ここにも「課題」があるのではあるまいか?
 これらをクリアすることでそれぞれの芸はいっそう肥やされ、その幅を豊かに広げることとなろう。洋楽寄席はあくまで居心地良く、温もりに満ちている。しかし一皮むけば、この空間は厳しい鍛錬と修行の場であると言える。(杜志夫)

◆2/21 観客から力を 
 会場に着くと、前回同様、今日もロビーが広く、受付のテーブルが小さい。「もしかして…」会場に入ると、思った通り正面にマリンバが。また一歩『通』に近づいた気がして、ちょっとうれしくなる。
 今日の司会と落語は三遊亭歌彦さん。その話の中で興味深い部分があった。うろ覚えではあるが、次のような内容だったように記憶している。『クラシックコンサートは静かに聴くけれど、落語の時は声を出して笑っていいんですからね・・・』この言葉を聴いてハッとする。落語ならば、その反応は笑い声、どよめき、沈黙等、とてもわかりやすい形で返ってくる。しかしクラシックコンサートの場合、静かに聴かなくてはいけないような雰囲気が出来上がっている。そして大概の会場では奏者が一段高い位置にいて、観客の表情は判らない。唯一の反応といえば拍手の大きさくらいだろうが、それだけで観客の真意を推し量る事は難しいのではないだろうか。
 そんなことを考えながら会場に目をやる。洋楽寄席は会場がフラットで観客と同じフロアで演奏が行われる。距離も近く奏者は観客の表情をよく見、反応を肌で感じる事が出来るのではないだろうか。観客の温かい眼差しは、奏者にとってきっと大きな力になることだろう。このようなコンサートは奏者にとってとても貴重な場なのではないだろうか。(仁戸露鈴)

◆2/22 何度でも
 千秋楽に行ってきた。前回聴きに行った時に出演していた奏者の演奏を、また聴くことことができた。
 「洋楽寄席」では、六日間の演奏会で述べ48名もの奏者に出会え、日によっては今回のように同じ奏者の演奏を再び聴くことができる。同じ曲を演奏しても、CDやレコードと違い、異なった演奏を聴けるはずだし、別の作品を聴ける場合もあるだろう。これを楽しまない手はない。他の人は気付いているだろうか。チケットに三枚綴、六枚綴の割引券ができたことを。行けば行くほど割引される。・・・演奏家の<何度でも聴いて欲しい>という気持ちがそこにあるような気がするのは私だけだろうか。 (GM)

 

 

 

 

 

 

 

 



洋楽寄席-2005-(秋ノ巻)体験レポート
      

◆10/24 うしろのドアを閉じて…

 少し大げさかもしれないが、アコスタディオの客席うしろにあるドアは、洋楽寄席を楽しむ上で非常に重要なアイテムである。このドアは、聴衆にとっては出入口であり、出演者にとっては舞台の裏と表とを仕切る役目を務めるものである。
 うしろのドアから演奏家が会場に足を踏み入れると、待ちかねた聴衆の拍手。ドアはそっと閉じられ、その瞬間から演奏家と聴衆の時空は同時にアコスタディオの内部に密閉され、両者の間に生ずる集中に心地よく充たされる。演奏家と聴衆はその深い充実感をともに呼吸しつつ、音楽の女神にいざなわれて旅を開始するのである。
 演奏が終わり再びドアが開く時、アコスタディオは宇宙空間をひと巡りして帰って来たような爽快感で一杯になる。この効果は「心理的換気」とでも名付けられるべきものである。そしてドアが開け放たれている間、聴衆は演奏家と噺家とのたわいもないトークを楽しみながら「心理的換気」を感受し、癒されると同時に、次なる旅立ち へと心支度を整え始めるのである。(杜志夫)


◆10/25 今日の出会い  
 
 今回私は、洋楽寄席の開場時間が18時であることを知った。早く着いたので、扉の前から階段へと続く列に並び少し待ったのだ。扉の内側ではリハーサルが続けられている様子。入場間もなく噺家が登場し、開演となる。
 この日の司会は、洋楽寄席初登場の柳家初花(しょっぱな)さんだった。初めて、と聞いて、なんとなく衿を正す気持ちで前口上に耳を傾けた。そういえば、8人の出演者の中にも初出演の人が5人いたが、演奏の堂々とした様子からはそんなことは想像もできなかった。まぁ、トークの初々しさは微笑ましいものがあったが。
 洋楽寄席に初めて出る人、回を重ねて自分の世界を確立している人・・・様々な演奏家や噺家に出会えるのが、この洋楽寄席の面白いところである。(GM)


◆10/26 祝・其の二五〇?

 午後から本降りになった雨は原宿駅に降り立つと上がっていた。荷物になってしまった傘を手にアコスタディオに向かう。チラシを見ると『其の二五〇』とある。記念すべき二百五十回目、「何か特別な趣向があるのだろうか・・・」と思いをめぐらす。
 今日の司会は春風亭一之輔さん。二百五十回目という記念の回、これまで何度も司会を務めた、いわゆる『ベテランさん』が登場すると思っていたが、今日が二回目だという。私でさえ洋楽寄席を聴くのは三回目・・・少し意外に感じる。そして演奏がスタート。私が聴いた過去二回となんら変わることなくコンサートは進む。勿論演奏者の顔ぶれは前回とまったく違う。聴き入っているうちにふと気付く。どの演奏者にも今日が二百五十回目であるという気負い?のようなものがまるでない。トークの話題にものぼらない。私自身もそんなこと途中で忘れてしまっていた。
 そうか、たぶん演奏者にとってこの洋楽寄席は、日々の活動の場。回数なんて眼中にないのだ。そう考えると洋楽寄席は、演奏活動の日常性を追及している演奏会といえるのかもしれない。ただ一晩一晩、各々がお客様と向き合い自分を表現する。それがたまたま二百五十回続いただけなのだ。一日一日を大切に積み上げていく。演奏会だけでない、日常においても大切な何かに気付かされた気がした。(仁戸露鈴)


◆11/07 はまってます・・・

 アコスタディオに足を運ぶのは今日で四回目。同じコンサート(もちろん演奏者も曲目も違うのだが)に何度も通いたくなるのは、洋楽寄席が初めてである。何がそうさせるのか考えてみた。
 まず、チラシに演奏曲目が記載されていない。その上プログラムがない。当初『不親切なんじゃないかしら…』と感じたこの事が、実は一番の魅力なのではないか。曲目で集客しようというコンサートが多い中、この洋楽寄席は演奏者が『売り』なのである。本家の『寄席』も演目は事前に知らされない。このあたりが『洋楽寄席』というタイトルを持つ所以なのだろう。これは演奏者にとっても厳しいに違いない。自分自身が商品?なのだから…取り上げられる作品は、バロックありロマン派あり近現代あり、国籍も独、仏、伊、日などさまざま。『どうしたらお客様に受け入れられるのか』そんな演奏者の工夫がうかがえる。
 アコスタディオはコンサート会場としては決して大きくない。演奏者の息づかいがダイレクトに感じられる会場で、演奏者の精一杯の表現を肌に感じ音楽に包まれる。こんな贅沢はなかなか無い!(仁戸露鈴)


◆11/8 詰め合わせ菓子の魅力=洋楽寄席

 洋楽寄席のいろいろな特色の中でも、出演者と曲目のヴァラェティが大変豊かである、という点は特に重要である。様々な経歴を持つ様々な世代の演奏家が、様々な形態で、様々な曲を演奏する。それを順々に聴く楽しみには、色とりどりの菓子の詰め合わせを思いつくままに味わう楽しみにも通ずるものがある。
 この夜も、若々しくさも爽やかなポロネーズの風、絢爛豪華な宮廷の柱の陰に見え隠れするいたずらっ子モーツァルトの顔、開け放った窓辺に降り注ぐ月の光、そして古めかしい舞曲名を冠した近代的でメルヘンチックな響きを存分に楽しみ、上流階級をおちょくる小咄の連発から一転してショパン後期の馥郁たる風を味わい、ヴィオラの一人語りに、フルートの吐息のような囁きに胸をくすぐられ、表情豊かに歌われ語られる民話を心ゆくまで堪能することが出来た。
 その日、その夜にしか味わうことの出来ない音楽と落語のお徳用詰め合わせ…しかも、高級菓子をあたかも駄菓子のような気楽さで楽しめるところにこそ、他には替え難い洋楽寄席の魅力がある!(杜志夫)


◆11/09 楽しみ見ィつけた。 
 
 夏の巻に一緒に行った友人と、秋の巻の千秋楽を聴きに行ってきた。さすが最終日である。客席もとても賑わっていた。
 司会と落語は五街道佐助さん。私にとって夏の巻以来二度目ということもあって、顔馴染みに会ったような気がした。出演者に対してもそうである。以前演奏を聴いたことのある人にはなんとなく親しみが持てたし、三度以上聴いたことのある人には、まるで知り合いにでも会ったような気さえした。
 もしかして、これが常連への入り口であろうか・・・。そうか、チラシをとっておけば、また次に聴きに行く時に、今回の出演者と出会えるかどうか先にわかるわけだ。今までのをとっておかなかったのが悔やまれるが、楽しみがひとつできた。
 今回友人は仕事の都合で少し遅れ、途中、演奏を終えた出演者と入れ替わるように入ってきた。前で噺家さんが次の奏者を紹介している時だというのに、まるで出演者のようにスッと入ってきた。今まで深く考えたことはなかったが、客も出演者もスタッフも同じところから出入りするというのは、とても珍しい光景である。友人によると、受付の前で次の出演者と一緒に演奏が終わるのを待っていたそうだ。「演奏してる時とは違う顔が見られたよ。」と喜んでいた。なるほど、この小さな会場は、出演者を身近に感じることも出来るようだ。(GM)

 

 

 

 

 

 

 

 




洋楽寄席-2005-(夏ノ巻)体験レポート
      

洋楽寄席への誘い

 6/20、21、22の三日間洋楽寄席を聴くこととなった。
 洋楽寄席はクラシックのコンサートであり、様々な形態の演奏を噺家の司会で繋ぎ、演奏者とのトークや、落語が一席楽しめるという趣向となっている。これは幅広い客層の様々なニーズに応えようとする、ある種大胆な企画ともいえる。もちろん決してお笑いのライヴではない。その驚くべきは公演回数であり、6/20の回でなんと242 回目を数える。
 原宿駅竹下口改札から歩いて数分、道端に現れるのは、かわいいライトに照らされた墨痕鮮やかな「洋楽寄席」の看板──これが会場となるアコスタディオの目印である。ビルの入り口から階段を下りていくと様々なコンサートのチラシが置いてある小振りなロビーに突き当たる。
 アコスタディオは床・壁面が総檜造りという味のあるスタジオ。会場の中は馥郁たる木の香りに満ち、心が落ち着く。正面には中型のべーゼンドルファー。可動式ながら座り心地のよいイス。しかしステージ右奥にはクラシックのコンサートには全く相応しくもない、「洋楽寄席」と大書された謎のめくりがぶら下がっている…。(続)


洋楽寄席にはパンフレットがない!

 受付でちょっと驚いたことがある。洋楽寄席には、クラシックの演奏会につきもののパンフレットがない!あるのはチラシだけであり、しかもチラシの表は「番付表」の体裁、裏は各演奏者の経歴、というユニークなレイアウト。そして何と曲目がどこにもない。実は、曲目は演奏直前に司会者がくだんのめくりをめくることによって初めて明らかになるという趣向なのである。つまり聴衆には何の曲を演奏するのかが伝えられていないのである。
 しかしよく考えてみると、本家・寄席でも入り口あたりに出演者名が示されているだけで、演し物は席に着くまで観客に伝えられていない。洋楽寄席もまた「何を演奏するのか?」ではなく、「誰が演奏するのか?」が主体である、という点で本家・寄席的に倣ったものといえる。
 ところで本家・寄席の噺家が、その日のお客の顔を見てから演し物を決めるようなことが、洋楽寄席でも起きているのだろうか?
 そんなことを考えているうちに、洋楽寄席に対して今まで感じたことのない興味が俄然わき上がってきた。(続)


洋楽寄席の楽しみとは?

 さて洋楽寄席の楽しみとは何か?それについては様々あり、これから色々な機会を通じて発言していきたいと思っているが、そのうちの非常に重要なひとつとして挙げられるのが、様々な時空間を自在に往き来する楽しみであると言える。
 大げさに言えば、アコスタディオというどの国籍、どの時代にも偏らない空間から、演奏家と噺家の力を借り、生の音楽と落語の翼に乗って次々と旅する楽しみ!…ある瞬間そこには落ち着いた西洋の町並みがあり、次の瞬間そこには江戸の賑やかな横町界隈がある。またある瞬間そこには雲を突くような高層建築が立ち現れ、次の瞬間そこには騎士とお姫様の悲恋に彩られた中世の城の廃墟が浮かぶ。
 まこと様々な地域や時代を生き抜いた人間たちの重なる思いがあり、それらすべての要素を繋ぐ基調として、見紛うことのない日本の薫りがある。その聖俗相乱れる奔放な混交こそが、洋楽寄席の最大の魅力ではあるまいか!


(6/20.21.22 杜志夫)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

洋楽寄席初体験

 原宿駅に程近いアコスタディオが会場である。受付を済ませ会場内に入ると寄席の「めくり」そして着物姿の男性が登場。どうやらこの落語家(五街道佐助さん)の司会進行で進むようだ。途中で落語もあるらしい。慣れ親しんだクラシックコンサートとは勝手が違い少々戸惑うが「洋楽寄席」のタイトルに納得する。 佐助さんの呼び込みで奏者が入場し演奏、そしてあたりまえのように奏者と佐助さんのトークがスタート。演奏後の安堵の表情で話す者あり、演奏中より緊張ぎみの者あり、内容は演奏とまったく関係ない日常の出来事などだが、かえって奏者の人となりが垣間見えて興味深い。前半が終了し休憩に入ると、やおらスタッフが舞台裏から何か持ち出し組み立て始めた。呆気にとられ眺めていると、美しく布まで張られた立派な高座が現れた。あまりの早業にただただ唖然。そしてお囃子にのり、佐助さんの落語が始まる。 クラシック音楽と落語、そしてトークを同時に楽しむ。そんな贅沢な時間を存分に楽しんだ一日だった。明日も是非足を運びたいと思うが明日は台風が関東地方を直撃するとの噂。辿り着けるといいのだが…


洋楽寄席の楽しみ方、発見!?

 台風の影響で不安定な天候の中、今日もアコスタディオへ向かう。直撃はまぬがれホッと胸を撫で下ろす。昨日は洋楽寄席初体験でかなり面食らったが、今日はじっくり聴くぞと決意を固める。今日の演奏者のうち二名は昨晩に続いての出演である。二晩続けて同じ会場へ足を運ぶ事も初めてならば、同じ奏者の演奏を聴くことも初めて。どんな事が起こるのだろうか… 台風の影響が心配されたが、なかなかの客の入り。昨日と同じく五街道佐助さんのトークで幕が開く。会は進み昨日聴いたはずの奏者の演奏が始まると、なんとも不思議な感覚にとらわれた。昨日とは何かが違う。どちらが良いとか悪いとか、そういう事では無い。違った魅力が感じられるのである。これは奏者のコンディションのせいなのか、それとも私?聴衆?多分その三者が響き合い、その時たった一度の演奏が生まれたのだろう。まさに一期一会である。 同じ奏者を二日続けて聴く。興味はあったがこんなにも新鮮な体験が出来るとは思ってもみなかった。洋楽寄席の楽しみ方を一つ見つけたようで、ウキウキしながら家路についた。


 
(7/25.26 仁戸露鈴)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

千秋楽・・・相撲じゃないよ

 私は、数年来の洋楽寄席ファンである。いつも気ままに一人で聴きに行くのだが、今回は初めて友人を連れて行ってきた。
 この日は夏の巻の最終日で、司会の噺家が「千秋楽」と言ったのを聞いて、友人は「相撲みたいだな。」とつぶやいた。確かに夏場所、いや、夏の巻は6月と7月で6日間ある。一晩限りの演奏会が多い中で、この洋楽寄席は、しっかり根付いている会なのだろう。
 友人と私は持っていたチラシを眺めていた。自分の行く日しか気にしていなかったが、他の日に目をやると、実に様々な奏者たちが出演していた。最終日のこの日は、マリンバと声楽とピアノの3種類だったが、他の日には、なかなか単独で聴くことの出来ない楽器もあり、また、8人の奏者で7種類の楽器の演奏が組まれている日もあった。
 洋楽寄席は今年で14年目に突入しているという。毎回このように多くの出演者を迎えて、よく続いているものだ。そう思いながら日付の上の開催回数に目をやった。なんと私が行った日は第247回!ものすごい長寿演奏会である。それを友人に伝えると、「まるで音楽界の"食いしん坊万歳!"だな。」と返ってきた。実に素晴らしいことである。
 可笑しなことばかり言う友人だったが、また聴きに来たいと言っていた。目の前で繰り広げられる生の演奏と落語が、かなり面白かったようだ。連れてきた甲斐があった。もちろん私も大いに楽しんだ。秋の巻では一体どんな演奏が聴けるのか、どんな組み合わせで聴けるのか、友人共々楽しみにしている。 
                      


 
 
(7/27 GM)

 

 

 

 

 

 

 

 




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